ゴミとの共存
今日は部屋の掃除をした。
一人暮らしを始めて3年ほどが経つのだが、どうも私には掃除を怠ける癖があるようだ。
端的に言うと私はモノが目障りになってから重い腰を上げて作業に取り掛かる。いつになったらモノが蓄積する前に片づけることができるようになるのだろうか。
ゆえに、今日はいろいろなモノを片付けた。
台所関係に関しては、洗ってシンクに干したままになっていた牛乳パック、納豆のパック、その他野菜が入っていた透明のプラスチックケースなど。
またリビングの机の上も気が付くと惨事になっているため、撤収作業をした。主に片づけたものは郵便物の紙類だった。郵便をポストから持ち帰ってはとりあえずの気持ちで、机の上にポイっと置いて放置してしまっているのが原因だろう。ときどき、積み上げられた資源の山の中に、こんなところにあったのか、という感慨を持たせる重要書類と再開を果たすこともあるので一つ一つ確認しながら作業を進める。
今日は電気料金の請求書くんに遭遇した。電気代の高騰で請求書を見ることが怖くて、まだ封も切れていない。目をそらしたくなる現実と対面させられた気分になった。
私は別に自分が多く物を持っている方ではないと思っている。物欲もなく、一人暮らしを始めた当初となんら家にある物に変わりはない。でもなぜだろう。いつもモノに囲まれている気がする。それはただ単に部屋が狭いのか、収納スペースを増やそうとする向上心がないからなのか分からないが片づけても片づけてもすぐにモノが増えていく。
フリーペーパーやチラシは私が受け取りの可否を決定せずともやってくる。大学の資料や参考書も日々蓄積されていく。私はただそれらを消費する人間としてここにいる。
一人暮らしを始めてすぐのこと、私は家に設置したゴミ箱があれよあれよと溜まっていく様子を見て驚愕した。人間一人が生きるだけでこれだけのゴミを出すのかと。実家にいたときは気付かなかったが、私はゴミを排出することで生きてきた。そしてゴミに生かされてきたのだということを強く実感する出来事であった。そのようなことに気付くと同時に、私というなんでもない人間を生かすために、環境に負荷をかけていることに対して申し訳ないという気持ちが募った。それは、環境問題とは他人が作り出すものではなく、明らかに自分もその一翼を担っているという事実を直視せざるを得なかったからだろう。
そして今、夕飯後に一つ食べてしまったシュークリームの包装紙を見て思う。
またゴミを出してしまった。
結局私は日々増えていくゴミ箱をのぞいて自分の生を実感するのだろう。
なぜ私は英語が話せないのか
英語が話せるようになりたい!
最近、行動制限も緩和され、世界の人の移動も活発になってきましたね。
街中でも異国の言語を話す人々を見かけることも増え、バイト先でもそのような人々に接する機会が増えました。
(ちなみに私はコンビニでバイトをしております。)
しかし!!
私は英語が話せない、、(´・ω・`)
初めて海外の人のレジ対応をしたとき、「レジ袋はご利用ですか?」と自分なりに英語で聞いたのですが「I don't know.」と一蹴され撃沈。生まれてこの方日本を出たことのない井の中の蛙である私にとっては初めての挫折でした、、。
この時、苦い思いをすると同時に、今まで英語の文法やスペルなど筆記中心に勉強してきたが、話すことに対しては無頓着だったということに気付きました。思い返してみると、高校生のときに受けた英検2級では筆記試験だけに合格し、面接で落ちました。そのときから、話すことへの苦手意識はあったように思います。
しかし、レジで初めて海外の人と英語でコミュニケーションをとらなくてはならないという状況に強制的に置かれた私は、今まで感じたことのないくらい強く、英語を自分のものにしたいと思うようになりました。
そこで、手始めに何カ国語も話すことのできる同僚に「どうやったら英語を話せるようになる?」と聞いてみました。そしたら「Let's try! 私と英語で会話しよう」と答えられました。この言葉に正直戸惑いました。なぜなら私はその場にふさわしい単語を思い出すのに時間がかかるし、頭の中で正確な文章を組み立てるスピードも遅いからです。自分は英語を話すだけの知識がない、インプットが足りないんだ、そのように思っていたからです。
このことを彼女に打ち明けると、「日本人は筆記することについては優秀。文法も正確。だけど話すことが苦手なんだよね。」とのこと。
確かに、私はいつも正確な文法でなければならないなどという、発声する以前にいろいろなことを考えすぎていたことが英語を喋るときにネックになっていたのだと気づきました。実際、英語話者の方々はそこまで文法を気にしていないようです。
冒頭の挫折の経験をしたときは、自信の無さからもごもごと喋ってしまい、発音に重要な子音が相手に伝わっていなかったのかもしれないと思いました。
そして最近読んだある本には、小学校や中学校、高校にいるALTの先生は職員室で誰も話しかけてくれず、孤独に陥ることが問題となっていると書いてをありました。
しかし、ある科目の先生だけは積極的にコミュニケーション取ってくれるそうです♪
どの科目の先生でしょう??
ーーーーーーーーーーー勝手にthinking timeーーーーーーーー
正解は英語の先生、、ではなく体育教師だそうです。
英語の先生は英語が喋れるというレッテルを剝がされたくないため、自ら話しかけたくないのでしょうかね。体育の先生は持ち前の明るさとパワーで積極的にコミュニケーションを図ってくれるそうです。
このような事例から、とにかく失敗を恐れず、コミュニケーションを取ろうとする心意気が意思疎通の第一歩であることが分かりました。
今まで英語を喋ることに興味が無かった私ですが、実際に海外の人の接客を経験して、初めて英語を話せるようになりたいと心の底から思った話でした。また、日本人は職員室の先生たちのように海外の人に距離を置いてしまいがちだと思いますが、恐れずに積極的にコミュニケーションが取れるようになったらお互いに居心地の良い空間が作れるのではないかと思いました。
では今回はこの辺で失礼します。
最後までお読みいただきありがとうございました🍀
私はこれから英語学習をリスタートさせようと思います!!
継続したいな!!(笑)
ネット初心者がブログ始めて思うこと
みなさん、自身のブログ記事を自分で読み返しますか?
なんとなく私にはそれができません。
読んでいると非常に恥ずかしい気持ちになります。
それは稚拙な文章を読んで頭を抱えてしまうからという理由が大部分を占めているのですが、他の理由もあります。
それは、隣にいる人には言わない自分の内情を発信しているからです。また、私はtwitterなどのSNSも見る専です。なんとなく、自分がtwitterのような字数制限のあるアプリを使ってしまった場合、今の発言は誰かを傷つけていないか、誤解させることはないかというようなことを考えてしまってツイートを書いては消して、というようなことを繰り返してしまいそうなためやりません。
ここまで読んでいただいた方はお分かりになったと思いますが、私は発信するという立場においてネット初心者です。今までただSNSに流れてくる様々な発言を見るだけの、情報の消費者でした。もちろん、SNSには有益な情報もあります。しかし断片的な知識を持ち合わせて他人を攻撃したり、匿名性を良いことに言葉の暴力で好き勝手言う人たちもいます。そのような人々を滑稽だなぁと見ていただけの人間です。
それと同時に、私は恐れていました。
好きなものを好きと言って批判されることがあるということに。
自身の正義を示そうものなら、他の人も正義を振りかざし、対立してしまうのだということに。
だから、思い付きでブログを始めてみた私はなるべく中立、事実中心、そしてマジョリティ側の意見を語るブログを作ろうと思いました。
しかしブログを始めて気づいたことがあります。
ブログの発信内容にもよりますが、客観的事実だけを書いても読者の共感や反応はイマイチ得られないのではないかということです。私は他の方のブログを読むことも好きです。そして面白いと感じるのは書き手の想いとか思想が伝わってくる文章だということに気付きました。たとえ少数派の意見だとしても好きなものは好き、そう言って意志を貫くことができる人がここには多く存在するように思います。それをみんなが受け入れる。ブログの世界では様々な感性に触れることが楽しいのだと思いました。
今までほんの数本ですがブログを更新して、自分のまとっていた鎧がだんだん小さくなっているのが分かります。それはもちろん、温かく読んでくれている方がいるおかげなのですが、自身もその方が楽しいと感じております。
これからも好き勝手、ゆるく更新していこうと思いますがよろしくお願いします!
ビニール傘をイタくする
私はビニール傘をイタくする。
その理由はお分かりいただける方が多いのではないだろうか。
コンビニやドラッグストアで、傘の中で最安値で売っている無色透明のビニール部分と白か黒でできた柄を持つ傘を盗難されることを防ぐためである。
これまでに2回、そのようなビニール傘を盗まれた経験がある。
1回目はコンビニ。コンビニから出るときに晴れていたため傘を持って帰ることを忘れ、1日ほど放置してしまったことが主な原因だと思うのだが盗まれた。
そのときの傘は自分のものだと主張する目印として柄の部分にマスキングテープを貼っていた。それもたまたま家にあった、濃いブルーの色地に黄色やピンクなどで複雑な模様が描かれた、決して万人に受けるようなデザインではないはずのものだ。
でも盗まれた。私は盗まれた際思った。盗んだ人、マステで手べたつかなかったのかなあと。そしてどぎつい柄を見て何も思わなかったのだろうかと。
人の使った痕跡が残る傘を盗んだ人のことを考えると自分には理解できない生物すぎて少し気分が悪くなってきた。
2回目は大学の学部棟でのことだ。ここでは完全に油断していた。
いつものように柄の部分にマステを貼るのだがそれは無地の色付きテープだった。
当然、前回よりデザインはシンプルで誰にでも使いやすそうなものだった。
しかし私は傘を長時間どこかに放置することが悪いのだと思っていたため、2コマだけならと学部棟のエントランスに置いてしまっていたのだ。
そして盗まれた。
同じ大学の同じ学部の人にそんな狡猾な人がいたとは実にショックだった。わずか2コマの間の犯行と考えると恐ろしいことこの上ない。みんなのほほんと生きてると思ってた、、(´;ω;`)
この2回の経験より、私は傘を長時間放置しないこと、どこであれ持ち歩くということを頭に入れることができた。
しかしやはり授業の際は傘が邪魔になる故、傘立てに置いておくことが多い。
そのためとても傘をイタくしている。
柄の部分に最初に無地のマステをはり、その上からレースのついたフリフリのマステを貼る。そのデザインはとてもメルヘンチックだ。この手のデザインのものを好む人がいることも承知だが、多少使っていて恥ずかしさがある。
でも3度目の正直にかけている自分にはそんなこと苦ではない。
傘を2回盗まれたときには、盗まれた傘たちがいたたまれず、自分は傘を持たない方が良い人間なんじゃないかと思ったほどだった。それでも傘を持たないわけにはいかず、罪悪感と共に3つめの傘を買ったとき、この子は絶対に守ると誓った。
ビニール傘ではなくもう少し値の張る傘を買って長持ちさせなさいよ、と思う方もいるかもしれない。だけど私はビニール傘のデザインが何よりも好きなのだ。シンプルで透明なデザインは傘を開いたときに雨との一体感を感じさせてくれる。ビニール傘以上のデザインは私にとってないのだ。
だから私はビニール傘をイタくする。フリフリレースのマステの効力を信じて。
これからの季節、傘を使う出番が多くなると思いますが、みなさんも盗難被害には気を付けましょう。
ありのままの自分でいいんだと思わせてくれる歌
”四角い場所で四角になれず丸い場所で丸になれなくていい”
高橋優さんの「アスファルトのワニ」のサビの1フレーズです。
私は中学生のころから高橋優さんのライブに行くほど彼のファンなのですが、この曲は新学期、新しいコミュニティに馴染めなかったときや、初めてのバイトで自分の不甲斐なさを痛感する日々の中で、夜家に帰り、毎日のように聞いていた曲です。
この曲は2019年にNHKの「発達障害キャンペーン」のイメージソングとして書き下ろされました。「発達障害キャンペーン」とは簡潔にいうとNHKがテレビやラジオを通して発達障害の認知向上を図るための取り組みでした。
参照した動画以外に、発達障害の女の子が出てくるNHKが制作したver.のMVもあります。(著作権の関係上ここには引用できませんでした😢)
私は最初、キャンペーンの歌だとは知らずに聞き、後にYou Tubeでその事実を知ることになったのですが、この歌詞は決して障害のある方だけにあてはまるものではないと思いました。障害の有無に関わらず、誰しもが何かしら社会の中で生きづらさを感じていたり、感じる瞬間はあると思います。この曲は、そんな社会に生きるすべての人を受け入れ、肯定してくれる歌であると思います。
特に、冒頭に書いた歌詞はそんな意味合いが強いのかなと個人的に思っています。
また、その歌詞の続きに
”モノクロの世界に見つけた物語 解き放て!彩りとあの日のほほえみ”
とあります。ここから、
”あなただけが見える景色の中で生きて良いんだよ”
”そしてそれを大切にしよう”
というようなメッセージを感じ、何度も私はこの歌詞に勇気づけられました。
だからもし、同じようにこの曲に元気をもらったという方がいたら嬉しいです。
以上、私が大好きな高橋優さんの紡ぐ歌についての話でした。
ここまで押し売りに付き合っていただいた方、ありがとうございました。
お題を提供してくれた方にも感謝です。🍀
推しのコンビニ店員さん
夜道に煌々と光るコンビニの明かりを見ると安心しますよね。
私は大学生になってからというもの、誘惑に負けてつい立ち寄ることが増えてしまっています、、。
24時間やってるの便利だけど浪費してしまうからやめてー(;´д`)ゞ
今日はそんなバイト終わり、ふらふらっと入店したコンビニでの出来事を紹介します。
その日私は初めて感動した(?) 接客を受けました。
感動するレジ接客ってなんぞや、おい
と思われるかも分かりませんが、
会計を済まし、一言お礼を言ってレジから歩き出したときです。
「ありがとうございましたーーーーーーーーーーーー」
無機質なコンビニ内に響き渡るさやわかな声と
ラーメン屋かと錯覚するほど伸びーる語尾。
そして最敬礼通り越し、微動だにしない美しい90度のお辞儀。
私が歩みを進める、コンビニの出入り口の方面に体を向けて
その店員さんはずっと90度のお辞儀をしているんですよね。
私が店内を出るまでずっとです。
私はその光景に思わず2度見してしまいました。
コンビニってそんなに一人の客に対して丁寧に接客するところだっけ?!
とか思いながら
でも
恥ずかしさやらツッコミを入れたくなるような複雑な気持ちの後、
マスクの下に笑みがこぼれていました。
バイトであった嫌なこととか消化してもらえた気がしたんですよね。
接客業のバイトを経験してからは店員としても、客としても
敬意を払ってコミュニケーションをとることは心がけていたのですが、
マニュアルを自ら大きく飛び越えていく猛者がいたとは、、!!
そして、ただ単にレジの接客において
お客さんの気持ちを明るくできるのだと痛感しました。
たかがレジの接客、されどレジの接客、どう捉えるかは個人の自由ですが、
そのとき私は確実に後者だと認識しました。
誰もがこの店員さんのようになる必要は全くないと思いますが、
効率化の図られたレジシステムが台頭し、客と店員、双方のコミュニケーションが減少する中でもお互いが尊重しあえる関係ではありたいですね。
以上、コンビニでの感動した出来事でした。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。
あともし読んでくれた中高生!私のIDはconviniだけど、「便利な」という意味の英単語はconvenientです。テストで間違えても呪わないでください。
やめることって悪いこと?
私が思いきってやめたことは大学のサークルです。
やめることって
周りから忍耐力がないとか、一度自分で決めたことなのに責任感がないとかいう目で見られたり、
マイナスなイメージが持たれがちですよね。
私はちっちゃなころから優等生~♪で入った習い事や部活はずっと続けてきました。
めんどくさくても、やりたくなくても続けることに意味がある、それが暗黙の認識で、そのような固定観念に刷り込まれて育ったといえます。
そして数年前、大学生になりました。
私は何を思ったのか、アドラーのいう所属の欲求を満たすため、
そして「ガクチカ」という未知のものを得られると信じて、
とあるサークルに入りました。
ですがそのサークル、サークルというより部活に近い感じの団体で、多くの時間、お金が取られていく日々になってしまいました。
お金や時間を割いてまでしたいことがそのサークルにある人たちは問題ないと思います。
しかし、私のような活動の延長戦上にあるものを求めて入った、不純な動機の持ち主は当然挫折します。
一年間、執行部の役員としても活動しましたが、引継ぎのタイミングで辞めました。
我ながら、そこまでよく頑張ったと思います。
逆にそこまで頑張ってしまったのは幼いころからの癖に縛られていたのかもしれません。
辞める勇気、決断は大きな労力を要しますが、振り返ってみると最善の選択だったと思います。
大学生になるまで辞めることを経験してこなかった私が、辞めることは悪いことでない、と分かったことが大きな収穫になりました。
自由に生きよう!
そして自分の本当に好きなことをしたいと思うようになりました。
でもこれができるのは若いうちだけなのでしょうか、、。
分からないけれど今はいろいろやってみる、そんな日々です。
では今回はこの辺で。
お読みいただきありがとうございました。