つれづれ日記

何者にもなれない、何者にもなりたくない、とか言っている。

ドクダミのにおい

先週の日曜日。とある村へ行ってきた。

 

初めて車ではなく公共交通機関を使って向かったのだが、その村へ向かうバスは1日数本であった。

小雨が降る中、田んぼ沿いにポツンとある小さなバス停に降りた。朝の8時半過ぎ頃のこと。その村は、田んぼと民家を囲むように生い茂る木々が生み出す冷んやりとした空気に満ちていた。雨粒がもんもんと白いミストのように木々と混ざり合い、細かな水滴となって空中に浮遊しているようだった。その光景、その空気は以前昼下がりに訪問したときとはまるで違うものだった。

私は傘を差し、バス停から歩みを進める。するとふと、ドクダミのにおいがして立ち止まった。見ると歩道の端に青々とハート形の葉が生い茂っている。

臭覚を刺激したその匂いは、「ドクダミ」という言葉が浮かぶのと同じくらいの速さで私の記憶を呼び起こした。

田舎で暮らしていた祖母の記憶。祖父と祖母の暮らす家には、春休みや夏休みを利用して遊びに行っていた。祖父母の暮らす田舎も山が近く、よく山に散歩しに行ったりもした。祖母は私や兄弟が蚊に刺されると、「これが一番効くからね。」と決まって常備しているドクダミの葉を一枚丸めて汁を絞り出し、赤く膨れた皮膚にあてるのだった。

幼かった私にはそれが祖母の持つまじないのように感じられた。畳の上に座らされ、祖母の手が施す仕業によってかゆみが自然と収まる気がした。ドクダミが放つ、少し苦みがある独特なにおいは、私のそんな記憶を呼び起こさせたのだ。

 

こんなことを書いていると、また思い出す。

 

夜になると暗闇の中で音が響いて怖い古時計、

祖母の摘んでくる赤く実ったほおずき、

いつもみんなで食べた祖父の作るてんぷら、

山からの湧水がきらきらと流れる小川、

いつも撃退されていたカメムシ

私が何度もやってとせがんだ神経衰弱、

祖母が急須で入れる番茶、

「お天道様になたぶつけて」から始まる、祖父が歌う絵描き歌、

決まって祖父母と遊びに行った小さな小さな公園、

受験期に会いに行かなかったこと。

コロナ禍で会えなくなったこと。

おじいちゃんが入院したこと。

ビデオ電話で病院にいるおじいちゃんと話したこと。

おじいちゃんのお葬式。

最後におばあちゃんと電話したこと。

おばあちゃんのお葬式。

 

書いていてあふれ出した涙は自分の大きな後悔。

あのとき、コロナ禍になるって分かってたら会いにいってたよ。

やっと会えた時、二人は眠ったように優しい顔してた。

「ありがとう」って言ったの伝わったかな。

 

初めて、あの場所ではないところでドクダミのにおいを感じた。まるで、祖母が近くにいるような気がした。すると、今までなんとなく良い場所だと思っていたその村が、祖父母の暮らした田舎に見えてきた。確かに、考えてみればすごく似ている。錆びれた道路やぽつんと佇む小さな商店。なんで今まで気づかなかったんだろう。

 

ドクダミから視線を上げ、私はまた歩き始めた。

二人は私の中に確かに生きていた。

それが嬉しかった。

ずっと忘れたくない。

二人とともにこれからも歩んでいこうって思った。